ペンギン先生の実践

基本的自尊感情とは、自分を大切に思う気持ちのこと

愛って何だろう?

愛って何だろう?と問いをもっていた頃に出逢った「星の王子さま」の著者サン=デクジュペリの「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。」という言葉は、「本当に大切なものは目に見えないんだよ」と共に心の羅針盤となる言葉で、教員人生で迷った時や困難に遭った時にわたしを導く言葉でもありました。

近藤卓先生の講演会に参加する。

先日(2019年1月19日名古屋)、日本いのちの教育学会 会長近藤卓先生の講演会に参加しました。近藤卓先生の主要な研究テーマは3つ

・自尊感情

・いのち

・PTG :辛い経験がトラウマになる(PTSD)だけでなく、心的外傷成長にもなる

今回の講演は、「こどもの心を支えるもの 〜ただ、そばにいるだけでいい〜」がテーマで、「自尊感情」についてのお話しが中心でした。今回の近藤先生のお話しの中で、特に印象的だったのは、「人間とサルとの違いは、仲間と一緒に見ることで、自分が感知した世界を共有しようとすること〜出典『共に見る』ことの力 山極寿一」の例をあげながら、「人間にとって一番大切なこと」として、「人間とは共有体験ができる生き物」と語っていたことです。

近藤卓先生の「共有体験ができる生き物」の説明を聞きながら、自己肯定感を高めた教育実践を振り返り、職員室で席が近くだったアメとムチの先生によくビシバシ指導されていたことを思い出しました。不登校傾向の子どもへの対応は、その子どもが学校に来るようになったのに「子どもに甘い」、対応不可能と言われていた保護者に、自己開示して信頼を得た時には「先生としての権威を落とす」。日々子ども達の対応に難しさを感じながらも、「今、必要なことだ!」と感じて懸命にやったことを、「優しすぎる」「甘すぎる」「権威を落とす」と真っ向から否定されたり非難されたりして、チーンとなったり、悲しい気持ちになったり、腹が立ったりしながらも、同時に「なぜ、この(アメとムチ先生は)ときどき、胸をバコバコたたいて力を誇示するゴリラみたいに見えるんだろう」と不思議にも思っていました。

向き合っているのか、寄り添っているのか

この度、そのなぞが解けたのです。その先生も子どもへの想いがあります。それは確かです。ただ、その先生が「向き合う」場面の多くで、わたしは「寄り添う」ことをしていたことが異なったのです。クラスになかなか適応できない「問題児」に出会った時に、その先生は子どもに向き合って、「問題だ!」とばかりに無理矢理子どもを変えようとし、子どもが嫌がって暴れてると足をつかんで教室から引っ張りだしたり、子ども達の全員の前で怒鳴りつけたりしていました。わたしは大人が怖くて暴れたり暴言を吐いたりする子どもに出会った時に、「友だちがほしい」「居場所がほしい」という子どもの心の奥の奥の本音を聴いて、子どもの想いが叶えられた世界を共に創ろうとしました。このように、アメとムチ先生は縦の関係性から、わたしは横の関係性から子ども達を観ているので、立ち位置が違うから見ている世界もその広がりも違ったのです。アメとムチ先生に見えているのは目の前の「問題児」、わたしに見えていたのは子どもが創りたい世界だったのです。だから、その先生とは話が全然かみ合わなかったのだとやっと分かったのです。

「人間とサルとの違いは、仲間と一緒に見ることで、自分が感知した世界を共有しようとすること〜出典『共に見る』ことの力 山極寿一」にあった、「共視」という力は感覚と想像力が必要です。言語でどんなに心を尽くし説明しても、子どもの心を感じなければ伝わらないのだいうことも、今のわたしは理解できるようになりました。「夕日がきれいだね」と言って海の彼方に沈む太陽を指し、美しい夕日を共に見るというのは、人間ならではの力です。そして、実際には目の前にない世界を共に見て希望を感じたり、その世界を創り出したりすることも、人間には想像力があるからできるのです。子どもと関係性を創ったら、横に並んで同じ世界を見ること(共視)で、共有体験ができます。そして同じ世界を見て同じ世界にいるから、共感が生まれるのです。

共有体験と共感の大切さ

そもそも、わたしがこの共有体験と共感の大切さに気づくきっかけとなったのは1人の先生との出会いからです。特別支援学級の担任経験があって、クラスの雰囲気がすごく温かくて、他の先生だと「問題児」なのにその先生が担任すると「リーダー」になって活躍したり、子ども達が成長したりする先生から、「先生の多くは階段の上にいて、上から下にいる子ども達に向かってやりなさい!なんでできないの!と言って無理に引っ張りあげようとするけど、わたしは階段を下りていって、さあ一緒に階段を登ろうね、と進むのがいい」と言ったのを聞いたことからです。わたしは、ほんとうにその通りだなぁと思い、それ以来、「問題児」とか「できない子」と周りから言われる子どもに出会うと、その子どもの横に立って、その子どもの目には何が見えているのかを想像して、そこから一歩進むにはどんな階段なら進むことができるだろうかと、あれやこれや思いを巡らすようになりました。その小さな日々の積み重ねを経て「問題児」も「できない子」も排除されないクラス作りができるようになり、安心感の高いクラスとして心理学の研究対象にもなりました。そうやって自己肯定感の高い子ども達が育つ土壌が耕されていったのです。

基本的自尊感情とは何か

近藤卓先生は自尊感情を「社会的自尊感情」と「基本的自尊感情」に分け、共有体験と感情の共有を通して、和紙を1枚一枚積み重ねていくように育まれていく「基本的自尊感情」の大切さを長年伝えてみえます。「社会的自尊感情」とは、「認められたり、ほめられたり、優れていると実感できたり、価値があると思えたりすれば高まるが、失敗したり、叱られたりするととたんにしぼむ状況や状態に支配される不安定な感情」です。アメリカの失敗は、他者との比較で自分の優れている点が焦点化され、そのことを過度に意識化させることになってしまったこと。日本では、社会的自尊感情を育むことに熱心で、子ども達は頑張り努力し成功し続け、息つく暇がない、と指摘されていました。

一方、「基本的自尊感情」とは「あるがままの自分を受け入れる、かけがえのない存在として認めるよいところも悪いところも、長所も欠点も併せ持った自分を、大切な存在として尊重する感情」です。現代の日本では、家族崩壊の危機や地域社会の関係も希薄化し、子ども達は、ここに今生きていること、存在していることに不安と孤独を感じ、自信がもてない状態にいると、著書の中で述べられていました。

このように、子ども達の心のねっこ、「基本的自尊感情」を育てるには、子どものありのままを認めて寄り添う人の存在が不可欠です。しかし、核家族化や地域コミュニティの崩壊で、「基本的自尊感情」を育む場が、今では本当に少ないことが社会的な課題だと考えてます。孤育てしているお母さんにもよく出会います。「基本的自尊感情」が十分に育まれずに、自分を大切にする気持ちを持てない子どもが大人になった時に、周りを大切にすることができるでしょうか。若者達の自殺率が高い今の日本の在り方は、子ども達のありのままを認めて寄り添う人たちの存在が不可欠であることを示しています。

学校の授業を通しても「基本的自尊感情」を育む場を創ることができます。子ども達の内発的動機付けを引き出し、感情が動くような授業を展開すれば、「基本的自尊感情」が育まれていきます。感じるから始まる授業を展開することで、学校が子ども達の心のねっこ「基本的自尊感情」を育む場となるのです。

おわりに

そんなこと考えていると、わたしは子ども達との日々から得たギフトにまた1つ気づきました。嬉しくて泣く、悲しくて泣く、悔しくて泣く、子ども達から「よく泣く先生だ」と言われていたわたしは、子ども達との共有体験を通して、わたしの「基本的自尊感情」も育まれていったのです。

近藤卓先生の「自尊感情」についてはこちら

わたしの教育実践については

学級崩壊したクラスを再生する~愛おしいを育む居場所~

子ども達一人ひとりに必ずある「天才のたね」の発芽条件

主催は「もんもの木」

ABOUT ME
ペンギン先生
ペンギン先生 愛知県在住。元小学校教員。 学級崩壊のクラスを受け持ち、「面倒くさいし」「やりたくないし」「出来ないし」という子ども集団を目の前にして、「何とかしたい」「道を拓きたい」と懸命に試みていたあの頃の私を思い出しながら書いています。 自己肯定感の低い子ども達や家族の心の闇に直面し、「子ども達一人ひとりに、必ず1つは『天才のたね』がある!」「温かな家族のようなクラスにしたい!」という想いを心の灯火に、試行錯誤しながらも課題に1つ1つ取り組み、全国平均76%よりも低かった子ども達の自己肯定感が担任していたクラスでは97%へと向上しました。 このブログを通じて、子供達の可能性を信じる気持ちが波紋のように大人たちに広がることを願っています。

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