天才のたね

人の中にいて感じる孤独

We are all alone

先日、知らない方々が多く集まる会に参加しました。この会の中に、数ヶ月前にお子さんを亡くされた方が参加されていました。農園を背景にサックスの演奏があり、

「We are all alone」

という曲の演奏がありました。

サックスの演奏を聴きながら、その方の近くを横切ると、わたしはそのお子さんが生きた意味を懸命に言葉で紡ごうとし、笑顔を浮かべてお子さんの人生を語ろうとする方の心にある深い深い悲しみを感じて、涙が溢れ出しました。しかし、わたしはご本人にその事を伝えないことにしました。触れずに、そっとしておくことの方がいいこともあると感じたからです。

人に疲れること

今のわたしは相手に合わせた会話をすることが苦手なので、周りの人たちと適度な距離をとり、時々一人ぼんやりと過ごしながら、それでも何だか疲れきって帰宅しました。すると、夫によって、我が家には暖炉に火が灯されていました。この冬初の暖炉の灯火を眺めなら身体が緩んでいきました。

「今日はどうだった」と夫に聞かれて、

「知らない人達ばかりの中にいて、久しぶりに人に疲れた」と答えると、

「知ってる人が一人いただけでもいいだろ」と、夫がわたしを労るように言いました。

「そうだね。一人もいなかったら多分、わたし行こうとも思わなかったし、行ったことで感じたこともあるから」と、言葉少なく話して、深い眠りにつきました。

孤独と孤立

翌日、「人の中にいて感じる孤独ってある」と思うに至った過去の二つの出来事を思い巡らせました。

一つ目は、ポルトガル語の通訳をしている頃

ある工場が外国籍の労働者を大量に解雇するという情報を得たわたしは、事前対策を上司に掛け合いました。しかし「管轄外のことだから」と断られた結果、職場に職を失った外国人労働者の方々があふれるように来所し、その対応に追われながら、砂を噛みめるような思いを日々味わいました。

二つ目は、学級崩壊を再生した際の手立てを学校全体に導入しようとして、ベテランの先生達の反対にあった頃。子ども達の変化を認めながらも、わたしという存在や手立てに非難攻撃してくる同僚に対して、時間をかけて対応してみた後で、距離を徐々にとるだけでなく、やがて心を開いて話すことを諦めました。二つ目の出来事は、孤独というよりは孤立に近くて、人を貶めて自らの信用を高めようとする行為を見聞きすると、ごく最近まで嫌気がさすという負の感情を生み出しました。

友人との対話

久しぶりに友人と再会した日のことです。ずっと会えない時期に友人は、「孤独って何かな」と考えることがあったようで、彼女にとって孤独とは「この世に生きる人たち全てに『優しさ』が少しも無いと信じている時って孤独だあと思う。でも『優しさ』は見えないし、常には感じないから、人はみんな孤独なんです」と語りました。

わたしは、彼女の言葉を受けて、自分の中の優しさを精一杯示している時に認められないことや理解されないことで孤立感を感じたことを思い出しながら、「わたしの中では孤独と孤立があって、人はつながりを失って孤立したら、生きることを諦めてしまう。でも、孤独は大丈夫、生きていける。そんなふうに孤独と孤立を捉えている」と続けました。

その友人は、ずっと会ってほしいと思っていた大切な友達と、ずっと連れていきたいと思っていた大切な場所にわたしを導きました。

いのち豊かな自然が色濃く残る場所には、大きなぶなの木が佇んでいました。ぶなの木に抱きつくと、まるでおばあさんの温かな手に包まれているような安堵感を感じるぶなの木でした。わたしは、ぶなの木に座って語りかけ、そして想いを馳せました。

どうか1000年後の子ども達もこの豊かな自然の中で笑顔でありますように。

ABOUT ME
ペンギン先生
ペンギン先生 愛知県在住。元小学校教員。 学級崩壊のクラスを受け持ち、「面倒くさいし」「やりたくないし」「出来ないし」という子ども集団を目の前にして、「何とかしたい」「道を拓きたい」と懸命に試みていたあの頃の私を思い出しながら書いています。 自己肯定感の低い子ども達や家族の心の闇に直面し、「子ども達一人ひとりに、必ず1つは『天才のたね』がある!」「温かな家族のようなクラスにしたい!」という想いを心の灯火に、試行錯誤しながらも課題に1つ1つ取り組み、全国平均76%よりも低かった子ども達の自己肯定感が担任していたクラスでは97%へと向上しました。 このブログを通じて、子供達の可能性を信じる気持ちが波紋のように大人たちに広がることを願っています。

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