ペンギン先生の実践

物をかくす子ども達が教えてくれたこと

物をかくした子どもへの具体的対応

「先生、机の上にあったぼくの筆箱がありません」

心配そうな表情をうかべる子どもからの訴えに、

「クゥ~~~、この作業をやり終えたかった」

という気持ちをおさえて、先ずは、子どもと一緒に

「どうしたのだろうね。どこにあるのだろうね」

と、教室の中を探します。その時は、ストーブの後ろに筆箱がありました。さぁ、これからが本番です。筆箱が見つかって、子どもがすこしホッとした頃合いを見計らって、

「ねぇ、最近誰かとケンカしたか何かあった?」

と聞きます。すると、その子どもには、心辺りがありました。そこで、ケンカ相手のところに行き、

「あの子の筆箱がストーブの後ろにあったのよ。何か知っている?」

と聞くと

「腹が立って、隠しちゃった」

と打ち明けられました。

「そっか。で、腹が立って、筆箱かくして、スッキリしたの?」

「ちょっとはスッキリしたけど、何かモヤモヤしている。」

「どうして。」

「だって、筆箱隠すのはよくないから。」

「本当はどうしたかったの。」

「本当はさ、あんな風に言ってほしくなかった。」

「そっかぁ、あんな風に言ってほしくなかったね。

筆箱隠したことについてはどうしたい?」

「モヤモヤするから、あやまりたい。」

「じゃあ、あやまった後で、あんな風に言ってほしくなかったって伝えてみる?」

そして、2人の話し合いとなりました。

苦い経験

このような対応を子ども達にするようになったのは、先生になって1年目の苦い経験があるからです。初任者として3年生を担任していた時に、くつ隠しがありました。同じ女の子のくつが3回隠されたのです。だれがしたのか、なぜ起きたのか、子ども達に聞いても分かりませんでした。わたしは、教室の子ども達の前で「くつを隠して、友だちを嫌な思いにさせている子が、もしかしてこの教室にいるのかと思うと、わたしはそれが、、、、」と言って、悔しかったり、悲しかったりで、子ども達の前で泣いてしまいました。すると、その後で不思議とくつ隠しはピタリと終わり、靴を隠された子どもは「先生は、わたしを独りぼっちにしなかった」と言って、その子どもとわたしの心の繋がりはできました。

その頃のわたしは、「靴を隠す子が悪い!やってはいけないこと!」と考えていました。「いけないことをした子はだれですか」という考え方のもとで子ども達に聞いていました。そんなわたしの考えを諫める(いさめる)ように、初任者研修の指導教官である先生が、「〇〇ちゃん(靴を隠された子)、わたしたちの知らないところで、友だちにきついことを言ったりやったりしたりしているのかしら」と、つぶやいたのです。わたしは、指導教官のつぶやきにハッとして、「そっか、表面に現れていることで『いい・悪い』と判断出来ないな。肝心なことは、その隠した子と隠された子の間に本当は何があって、そこからどうしたいかを子ども達が決める力をもつことだな」と気づいたのです。

「いい・悪い」と最初から決めつけて子ども達に接したわたしの愚かさと、子ども達から信頼されない限り本当のことは話してもらえないのだという苦い事実を噛みしめた経験でした。

子ども達に約束をし、試みる

それからわたしは、どうしたものかと自分に問いかけ、

正直に打ち明けたことについて決して叱りません。約束します。

ということを、子ども達に試みることにしました。すると、先の筆箱の事例のように子ども達から本音が聴けるようになっていったのです。靴隠し、物盗り、イジメ、中には数年越しの年季の入った事例も数々ありました。わたしは、1つひとつ対応しながら、「あぁ、子どもって、何かやらかしちゃうものなんだんな」と、捉えるようになりました。

ある年、アメとムチ系賞罰指導の先生が担当したクラスを引き継いだ時のことです。授業開始のチャイム前に子ども達は着席している。姿勢はピシッと揃っている。挙手のした手の指先まで伸びている。パッと目には「素晴らしい!」子ども達の姿でした。

だけどわたしには子ども達のそろった姿が妙に不自然に感じられました。子ども達の表情の硬さや、自分の気持ちを表現しようとしない(上手くできない)姿や、本当は心に何も届いていないのにきちんと聞いているふりをしていることや、何かは特定できないものの子ども達の中にスカッとしない陰に篭もった(こもった)心の動きを感じました。自分で考えて決めて行動することにも慣れておらず、アメとムチ先生の指示・命令に従順であったがために、危険を予知して未然に防ぐ力も育っていませんでした。そんな子ども達がわたしに慣れてきた頃を見計らって

「もしね、誰かの物を隠したことがあったら、決して叱ったりしないし、あなたたちに断りなく誰かに話したりしないから、正直に書いてほしい」と子ども達に聞いたことがありました。

すると、30人ほどの教室で8人位の子ども達が、以前友だちの物を隠したことがあると応えたのです。わたしは、この数の多さにびっくりしました。そして「えっ?まさかこの子が!」という子どももその中に含まれていました。「えっ?まさかこの子が!」と、わたしが思った女の子に話を聞くと、

・鉛筆を隠したことがある

・嫌なこと言われて、だけど言い返すことも、嫌だって言うこともできなかったから、むしゃくしゃして、鉛筆隠して困らせたくなった。

・嫌だと言えなかった理由は、(アメとムチ)先生から「『ごめんね』と言ったら『いいよ』と言いなさい」と言われたから。

わたしはその女の子との対話から、子どもの気持ちに反してアメとムチ先生のように大人が決めた行為を子どもに強いると、このようにむしゃくしゃとした感情が陰(いん)にこもり、鉛筆を隠すなど別のカタチで現れるのだということを知ったのです。だからその子には、「本当に嫌だと思った時にはそう伝えても大丈夫」と言いました。彼女はそれを聞いてホッとした表情をうかべたのです。

わたしは、このような子どもたちとのやりとりを職員室でよく他の先生達に話していました。すると、「わたしのクラスの子ども達は、決してそのようなことはいたしません(暗に、指導力がないのではありませんか)」と主張する先生がいました。翌年、その様に主張した先生の子ども達を引き継ぐと、子ども達からの打ち明け話から、年季の入った事例が顕わ(あらわ)となり、その対応をすることが何度もありました。ついでにその先生がついた嘘で子どもが学校に来なくなった際の対応もし、更に、その先生からわたしが子どもの親と謀って子どもを休ませたという嘘を周りに広められ、その時のいったいこれは何?体験がその後の危うさを抱える「頑張り屋のいい子」Sbタイプに隠された他責性(人のせいにする)や他罰性(正しさを盾に人を罰してもいいと考える)に気づくきっかけとなりました。ですからそれ以降、「わたしのクラスの子ども達は、決してそんなことはいたしません」と聞くと、

・気づいても知らないふりをして隠しているのかな

・子ども達が怖がって本当のことが言えないのかな

と、その言葉が本当かどうかを、わたしは子ども達の姿から鑑みる(かんがみる)ようになりました。わたしにとって、子ども達は真実の鏡だからです。

おわりに

小さな教室は、先生も子ども達も彩り豊かな人達が集まって一緒に成長する場、互いに学び合う場でした。

誰かを裁いたり罰したり排除したりするよりも、

互いに許し合い、違いを受け入れて

補い合い支え合う場である方がずっと

命の多様性

本質に合っていて

共に喜び生きられる

ということを

教えてくれた子ども達

たまゆらフォト

ABOUT ME
ペンギン先生
ペンギン先生 愛知県在住。元小学校教員。 学級崩壊のクラスを受け持ち、「面倒くさいし」「やりたくないし」「出来ないし」という子ども集団を目の前にして、「何とかしたい」「道を拓きたい」と懸命に試みていたあの頃の私を思い出しながら書いています。 自己肯定感の低い子ども達や家族の心の闇に直面し、「子ども達一人ひとりに、必ず1つは『天才のたね』がある!」「温かな家族のようなクラスにしたい!」という想いを心の灯火に、試行錯誤しながらも課題に1つ1つ取り組み、全国平均76%よりも低かった子ども達の自己肯定感が担任していたクラスでは97%へと向上しました。 このブログを通じて、子供達の可能性を信じる気持ちが波紋のように大人たちに広がることを願っています。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です